タイ、バンコク の中華街 (ヤワラー ) は...
これだけ発展したバンコク の街のかでも...やっぱ、今でも全然変わらない場所 ...
外国人の多くが生活するサイアム地区近辺 のBTS 沿線 🚆 は、
今や信じられない程の数の高層ビル🌇、モール が立ち並び、物量、便利度etcetc、 どれを取ってもそこいらの先進国 を既に凌駕している 程の発展 を遂げているのに...
下記のイベントがあり、その時の「Sakura(桜の造花)」がまだ残されている
toyokeizai.net
昔と全然変わらない (いや、少しづつ綺麗にはなっている?) 中華街(ヤワラー)の魔力は、まだまだ尽きていない ...みたいな...
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ファランポーン で下り『7月22日 (通称:ジュライ) ロータリー 』 に向かう「マイトリチット通り」を歩いて行くと、まず目につく この建物...
1905年 に建てられたコロニア調 の ボロいけどゴージャスな建物
これは...一体、何?
この朽ち果てた中華街に、謎の高級風なビル
その名も「ザ・ムスタング ・ビルディング」
6ー70年代のアメリ カの映画に出て来そうなすげぇ名前のビル(BLU=Building)。
どうやら現在は数室だけのホテル(ムスタング ブルーホテル ) になっているらしい。
で、その歴史を紐解くと、最初は病院💉 として建設され、その後銀行🏧 となった後に、な...なんと売春宿💜 にまで身を落としたビルである事が判明。
...結構、あなたも波乱万丈、大変な人生を送って来たのね...思わずビルに同情してしまう...
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で今現在、ここの一階が知る人ぞ知る、そこそこ有名な、渋めのカフェ☕️🍰として (2020年2月オープン) しているらしいのだが...
この素っ気無い躯体、なんの宣伝文句も、ビル自体の生命反応すら感じず、一体、どこから入ればいいのかすら不明... そもそも、ここが裏で、裏が正面なのかすらわからんし...
その名も「ムスタング ・ビルディング(BLU)」看板すらないので入り辛い
こんな不気味なビルでも 宿泊 もカフェ もかなり強気 の値段設定 で運営されているらしい...
※興味のある方は、「ムスタング ・ブルー」で検索し、どなた様かの口コミ や体験報告 を参照にして頂きたいが...まあ、何れにしても一見さんを拒絶している感ありありの不気味な体裁... なんか、お気軽な気持ちで気分で入ると火傷しそう🔥 ...お化け屋敷👻の様でとても怖ぇ。
そのムスタング ビルを越えて、更に歩くと...
怪しい建物の前に椅子を出して腰掛けるのは...かなり草臥れた中年の娼婦たち。
「ええ〜⁉️まだいるんだ〜⁉️...こういう人たちが...」
...私が反対側の道を歩いていても、 昼間っから、大きな声で呼び込みされる...
なんか、この近代バンコク の中に、いつまでも残るこの退廃感 ...なんかゾクゾクする。
二階以上は継ぎ足した感のある「木製雨戸」が印象的な中華ハウス
一階が個人商店、二階が住居の典型的な中華ハウス
なんか...もう凄い...という言葉しか見つからない廃屋っぽいバリバリ現役の住居兼仕事場...
本という言葉が似合わないこの労働者の街で見つけた古本屋... あ、でも...古本屋というよりもむしろ廃紙回収業者...?
その昔は、娼婦・路上生活者の住処だった7月22日(通常:ジュライ)ロータリー
そして、あの7月22日 (通称:ジュライ) ロータリー に到着。
その昔は、乞食やらマリファナ を吹かすオカシナ奴らが住み着いていた「地獄公園」
それが今ではすっかり綺麗に整備され、誰も住み着けない様周囲を頑丈そうな柵が...
思い返すと、私が初めてここに辿り着いたのは1989年2月
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...もともと、アジアには全く興味がなく...
大学を休学して🇳🇿ニュージーランド にワーキングホリディ、その後、🇺🇸米国のユタ州 で大学に通い、そののち🇪🇺ユーレイルパス🚈で欧州中を歩き回り、最後に🇬🇷ギリシャ から超激安のビーマンエア(バングラディッシュ 航空✈️)に乗って、 (何も事前知識がないままに) 🇹🇭タイに入ったのが、初めてのアジア (その時には興味のないアジアはさっさと後にする予定だったんだけど) ...この沼地にズッポリハマってしまい...💦
結局、これ/ここが原点
当時はまだインターネット🖥 など出現していない時代 で、私は欧州のユースホステル を転々としながら、途中で知り合ったアジア体験者のある日本人らから アジア情報を断片的に仕入 れたりした。 その結果、面白そーな「🇹🇭タイの ジュライを目指せ...」 という事になり、この地に初めて足を踏み入れた...という経緯...
雨の日に拝む2023年現在のジュライ...なんか、泣ける...
今回は、( まだ快楽と退廃の果てのるつぼだった現役時代の)ジュライ にお目に掛かって以来の再来なので、実に34年 ぶり。
この間、何度かタイに来る機会はあったが、流石に中華街まで足を延ばすことはなかった...
そんなジュライホテル も既に1995年10月 には(そんな前に) その歴史を閉じていた という事実は、私にとっては結構衝撃的...
更に驚かされるのは 、その後も壊されもせず、そのまんまの姿を28年間も晒し続けている 事 ...😦
それなら閉鎖せずその感もホテルとして運営し続けていれば、少しは実入りがあったのではと思うのは俺だけか...
この発展目覚ましいバンコク の中で、ここ「中華街(ヤワラー)」の一角が、全く変わっていない/変化していない (変化が遅い) /開発されていない...という事実にも驚愕する... まあ、だからこの街、好きなんだけど...
今も残るジュライホテル の屍
学生時代に バックパッカー をしていた時に初めてこの地に出会い 、その後、日本に戻って(仕事や家族を得たりして)... 随分遠回りし戻って来たら...
そこには(この急速な
バンコク の発展の波に一切飲まれずに)
昔のまんまそこに同じ景色がありました ...という感じで、なんとも複雑だけど...
自分の過去の足跡👣と重なって、 すっかりノスタルジー に浸れてしまうこの光景...ああ、素敵...
当時、日本語(カタカナ)で書かれていた「ジュライホテル 」の名前はもうないし...
そして2023年現在のもう一つのレガシイ...楽宮大旅社(の残影)...
今でもこんな感じ...なんだか、この場所は...「邪気」を呼び込む場所なのか...
嘗て80年代後半に自分の若さに任せて、米国/欧州を目指して海外に飛び出てみたら🛳... 難破しかけて...自然に (この居心地の良すぎた) 東南アジア、バンコク のヤワラーに流れ着いて、とうとう沈没しまった🚣♂ ...みたいな...甘酸っぱい思い出。
その当時は沢木耕太郎 や谷恒生 を知り得るよしもなかったが、 日本社会に復帰後、数年後に『深夜特急 』等がドラマ化され、その書籍の存在を初めて知り、作品を手に取り読みながら 「おお〜そう、そう、そうだった、そーなんだよなぁ〜」「ああ、おんなじじゃ〜んかぁぁ」と、 自分の体験と比べながら、初めてその時、自分の中で沢山のそこで起きた事象や体験が、腑に落ちた事を覚えている。
今は無き楽宮旅社(大旅社)
まあ改めて考えると、このロータリーは自分にとって「黒歴史 」ではなく「原点」だった かなぁ...
「豊かな青春、惨めな老後」 ...ジュライだか、楽宮だかの壁に書かれていたと言われるこの有名な言葉...
当時ここジュライロータリー界隈に沈没していただらしのない日本人たち、アナーキー な彼らを激しく罵る、弾糾する様な激しい口調で非難するブログやコメントなんかも嘗て目にする事もあったりしたが...
当時の時代背景を考えると...その時代にこの地に没していた人々は、それ程どうしょうもなく屑だったとは思えないよなぁ〜
国内で腐ったり、おかしなことをしでかす輩もたくさんいる中で、むしろ この(海外旅行が今ほど一般的でない時代に)日本をさっさと脱出し、自分の居場所を見つけ沈没していた先駆者/先輩たち...
私は、そんな彼らの生き方...今でも、決して嫌いではない...かな...
そ〜んな足跡が今でもたくさん残る場所...ヤワラー ...LOVE... 💘
以上