観光ガイドでも紹介されるサンパウロの「東洋人街:リベルダージ地区」
見た目はボロボロ、半分スラム化しており、最初の第一印象は正直...
「ひでぇなぁぁ、こりゃ」
ただし....朽ちかけているが、街には提灯型の街燈が下がり、足元の石畳には「お寺の卍マーク」、大きな鳥居もあり、更に日本食材店・日系料理店やラーメン屋・日系ホテルが立ち並び...
....「東洋人街」に変貌した今でも、日本人の足跡やテイストは至る所に残っている。
この日本の真裏に位置するサンパウロ旧日本人街が、一体どのような歴史を辿ってきたのか、興味が湧いたのでちょっとだけ調べてみた...
日本人が南米大陸に大量移民したのは1908~1934年と、第二次世界大戦を挟んで1953~1973年前後の計約50年間。
そしてそのうち、このリベルダージ地区が日本人街として最も輝いていたのは.....
どうやら1953年シネ ニテロイという日本人用の映画館(日本映画上映)が完成した時から1968年前後までの約15年間らしい。それは煌びやかで多くの日本人達が正装して闊歩していたという話を聞く。
しかし1968年にこの日本人街を跨ぐ形で高速道路の建設が始まり、300軒以上の日系商店・レストランの離散により、衰退が始まったんだとか。
現在も名が残る大阪橋や三重県橋は、1969年に架けられたもの。シンボリックな「鳥居」と「提灯」は、日本人街の再興を願う日系移民達が1974年に建立したもの。
また、今でもリベルダージ広場で行われている「ラジオ体操」は1978年から始まったそう。
ただ、その甲斐虚しく日本人街として活気が戻る事は二度と無く、その後、韓国人や中国人移民達が同地に入り、2004年には「世界最大の日本人街」という看板を下ろす事に。
以来この地は「東洋人街」としての道を歩んでいる。
現在は見るも無残な姿を晒す旧日本人街も、実は『その栄華は、もう50~60年も前の事』と聞くにつけ、
「そんな大昔の事ならば、しょうがないか…」と妙に納得。
さて東洋人街となった今、出身国というハードルはこの国では非常に低く、毎年7月には盛大に「七夕祭」が開催と思えば、中国の「春節祭」も行われ、大変な賑わいを見せている。
何故か(日系)中華料理屋や(中国系)焼きそば屋台なんかもあり、
何でもありの『オリエンタル・カオス』が渦巻く街として、再評価されている。
週末には沢山のブラジル人観光客が集まる場所にもなっており、近年、徐々に活気を取り戻しつつあるといえる。
こんな日本の裏側に「世界の黒澤」も遠征中〜!
|
🔳ああ、日本の美味しいパンが食べたい...